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● 友達ごっこ --- わたしなりの進歩 ●

 教室のドアを開けると同時に、できる限り大きな声で「おはよう」を言う。
 ほんの少しの勇気で、事態が好転することもあるわけで……。わたしは、哲己くんと話すようになってから、少しずつだけど理想に近づけてる気がする。何より、誰にでも「おはよう」を言えるようになったのは、大進歩なんじゃないかな。
「おはよう」
「はよーっ。きょーはまだこてっちゃん来てないよー」
 すぐに教室の中からは、返事が返った。まだ教室には数人しかいない。ちょっと今日は来るのが早かったのかな。教室の時計はまだ八時を少し過ぎたくらいだ。朝のHRの開始時間は八時四十五分からだからね。
 中でもひときわ大きな声は、向井(むかい)(はる)さんのもの。向井さんは何というか全く人見知りしない人で、誰にでもこんな調子で話しかけてくる。わたしが席につくなり、ぴょこぴょこと跳ねるように側にやってきた。歩く度に、高い位置で結ったツーテールが揺れる。髪型のせいかもしれないけれど、なんだかうさぎみたいだ。腕を後ろに回して首を傾げながら顔を覗き込んできた。そんな仕草も小柄な彼女がすると、とても可愛らしい。
「折角早く来たのに、こてっちゃん居なくて残念だったねー」
 彼女はわたしが哲己くんのことを好きだと誤解してるらしく、よくこんな風にからかってきたりする。まあ、確かに蓮子の次によく話すのは哲己くんなんだけど。
「別に、哲己くんを捜してるわけじゃないよ」
「だって小椋っちって、こてっちゃんとレンレンにらぶらぶだもん。隠してもバレバレ。……って、あれー、レンレンはぁ?」
 レンレンというのは蓮子のことだ。向井さんは途端に不機嫌な声になって呟く。目は少し潤んでいて、なんだか捨てられた小動物を思わせる。
 彼女は、蓮子の元恋人――高校に入ってから一人目――だったりする。今でも蓮子を本気で思っている、と本人が広言していた。ただ蓮子がまだ学校に来てない位で、まるで彼女が死んでしまったかのごとく、絶望した表情を浮かべた。今にも泣き崩れそうな彼女に、
「蓮子はちょっと体調悪いみたいで、……今日は少し遅れるかもしれないんだ」
 と告げると、向井さんは何もなかったかのように満面の笑顔を浮かべた。
「そっかー、よかった。……もし来なかったら、……寂しいもんね。よかったぁ、本当によかったぁ」
 彼女の心から安心した表情に、わたしも胸をなでおろす。けれど、すぐに彼女は少し表情を曇らせた。
「でもいいなー、小椋っちはレンレンと同じ部屋で暮らせて。ね、……レンレンの裸、見たことある?」
「え?」
 何と答えたらいいんだろう。そりゃ、寮の同室に住んでれば、着替えなんかを見ることもあるけれど。でも、「ある」なんて言って、余計な誤解をされたくもないし……。確かにわたしは蓮子に憧れてはいるものの、そういう風に考えたことなんて一度もないから。
「ごめーん。今の質問、忘れてー」
 あまりにも悩みこんだからかな。向井さんは照れ臭そうに舌を軽く出し、そのまま身を翻してほかの人の所へ行ってしまった。
 すぐに小さなため息が出る。
「おはよー、永久ちゃん。何だか朝っぱらから疲れてるじゃん」
 入れ替わりに、哲己くんが側に寄ってきた。前の席の椅子をこちらに向け、どかりと座る。
「おはよう。別に疲れてなんかないよ」
「俺にまで気ィ使わなくていいって。……ハルの奴、苦手なんだろ」
 わたしは少し考えた後、小さく頷いた。
 そうなんだ。本音を言ってしまえば、向井さんって少し苦手。すぐに感情が入れ代わってしまって、スローペースなわたしにはついていけなくて。けれど。
「嫌いなわけじゃないの。人を好きになって、他の人に嫉妬してしまう気持ちは、……痛いほどよく分かるから」
「ま、な。ハルの場合は特にソレが顕著だってだけで。アイツ、すげー自分に正直だから。俺も蓮子サンのこと好きだってバレてるみたいで、時々意地悪されるぞ」
「意地悪?」
「あー……、蓮子サンの裸を見たことあるか、とかいろいろ聞いてきて」
 さっきわたしにも言ってきた言葉だ。思わず顔を上げて、哲己くんの顔を凝視する。けれど彼はそれには気づかない様子で、言葉を続けていく。
「そういえば、蓮子サンは?」
「それ、向井さんにも聞かれた。……蓮子、昨日また恋人と別れたみたいで……不機嫌なんだ。話しかけても、うるさいって言うだけで。だから先に来たんだけど……」
 向井さんには言わなかった、本当のことを話した。別に向井さんを邪慳に扱ったわけではない。でも彼女に本当のことを話したらどうなるか、何となく想像したら怖くて。哲己くんだったら、話しても大丈夫そうだし。
 けれどわたしの言葉を聞くなり、哲己くんは黙り込んでしまった。もしかしたらこんなこと、知らせないほうがよかったのかもしれない。思わず俯いて、問いかけてしまう。
「やっぱり、こういう話聞くのって辛いよね」
「そりゃ辛くないって言ったら嘘になるけど」
 そこで一度言葉を切って、哲己くんは椅子を傾けた。アンバランスに見えて中々倒れない椅子は、大きな音を立てて元の位置に戻る。
「でもさ、しゃーねーもん。辛いのは俺の惚れた弱みだし。第一、蓮子サンが俺を好きにならないからってヘコんでたら、キリないだろ。そういう考え方ってエゴの塊だし」
「でも……」
「気にしなくていいって。先のこと考えてヘコんだって何もなんないだろ。まずは目先の問題から、一個ずつ解決してけばいいんじゃねーの?」
 目から鱗が落ちるって、こういうことを言うのかも知れない。それ位、哲己くんのその言葉を聞いて、私は考え方を根底から全部覆された気がした。
 ……わたしは今までずっと、先のことばかり考えてしまって、落ち込んでしまっていたから。何気ない言葉なのに、わたしの心はすごく揺さぶられた。
 哲己くんの言葉は魔法みたい。今まで誰に何を言われても頑なに自分を卑下してばかりだった。そんなわたしの心にダイレクトに響いて、「こうなりたい」だけでなく、「こうなるために努力しよう」って思わせてしまうんだから。
「やっぱり哲己くんはすごい」
 顔を上げ、思わず声に出してしまう。哲己くんは「そうか?」と、わけが分からないというように苦笑いを浮かべた。わたしはそれを肯定するため、何度も大きく頷く。と、彼は後頭部を掻いて、心なしか頬を赤く染めた。
 もし、蓮子が哲己くんを好きになったなら、どんなにすてきだろう。空想は果てしなく広がっていく。けれど、心から思ったんだ。哲己くんの恋がうまくいくといいな、って。
 蓮子は相変わらず恋人がすぐに変わってしまうけれど。でも哲己くんなら、蓮子を変えることができるかもしれない。だって、わたしを変えてくれた人だから。
「なんだかなー……。永久ちゃんと話してると、すっげーこそばゆくなってくる。自分が至極イイ奴になったみたいで」
「? だって、優しいし本当にいい人だよ?」
 心からそう思って言ったのに、哲己くんはなぜかとても驚いた顔をして、わたしの顔を凝視した。
「……そんなこと言われたの、初めてだ。永久ちゃんて本当に邪気がないんだね。本当にすごいのは俺じゃなくて……。でも、…………サンキュ」
 目を伏せて微笑んだ哲己くんは、いつもより大人びて見えた。心臓が大きくどきりと一うねりする。無性に照れ臭くなって、わたしは彼から少し目を逸らした。
「それよりさ、昨日のメールで数Aの宿題で分からないとこがあるとか言ってたじゃん。まだちょっと時間あるし、教えよっか?」
 声のトーンががらりと変わり、いつもの哲己くんに戻る。どうしてか、わたしは安堵に胸をなでおろした。
「あ、うん。ありがと」
 すぐに机の横に置いておいた鞄の中から、数学の教科書とノート、筆記用具を取りだした。あれから――哲己くんと話すようになったあの日から、丁度一週間が経った。メールでのやりとりは、今でもまだ続いている。内容はくだらないことばかりだけど。
 哲己くんに教えてもらう数学は好きだ。でもそれは、ただ分かりやすいからだけじゃない。数学について話してる時の哲己くんの声は、耳に心地好くて。
 教科書に目を落とし、ノートにシャーペンを走らせる彼の顔をじっと見る。まつげが長いな、とか関係ないことを考えながら。
 結局、先生が来るまでずっと、哲己くんに数学を教わっていた。

 

 ふと気づくと、蓮子は自分の席についていた。いつの間に来たのかな。でもそこに居たのは、いつもと同じ――背筋を伸ばして毅然とした態度の蓮子だった。

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